いつまで続くかわからないブログ/実験と挑戦

すぐ飽きる。最後までやりとげられない。物事を先送りする。そういう人のブログ。実験と挑戦。

実際に自分の目でみて耳で聞いて物を触って得るもの

前にTwitterfacebookなどのSNSに対するうんざりな気持ちをブログに書いた。その感覚は今でも変わっていない。それでもSNS、とくにTwitterから完全に離れられたかというと正直そんなことはない。TWを初めて半年から1年くらいの間はまるで中毒のようになって、気持ち悪くなるまでネットにかじりついてTwitterの新しいツイートをクリックしまくって、気になっている人のツイートをずーっと待って画面を見続けていた。ほとんど一日中って感じでやってた。そしてそんな毎日に心底嫌気がさして何とかTwitterから離れる方法はないかとパスワードを複雑にしてみたり、別のアカウントを作ってみたり、一度アカウントを閉じてみたりいろいろやっても効果がなく、最終的にたどり着いたのがブログだった。

これは結構効果をもたらしてTwitterべったりの毎日から、少し距離をおきながら時間を空けながら注意深くバランスをとりながらTwitterと付き合うという、以前に比べれば数段精神的にも目の状態にも健康的なやり方を獲得した。それでもなお、ときどき夢中になって気が付くと2時間もTwitterにへばりついているということもあったし、気になっている人が何をつぶやいているかが気になって仕方なく、自らつぶやきやフォローしてる人に絡んだりしなくても、TLをやたらチェックする日が続くときもあった。

なぜ完全にTwitterを断ち切れないか。これは何を隠そう人との繋がりを求めるからだ。寂しいからだ。だれかとたとえ文字だけでもオンタイムでつながっておしゃべりして何かを得たり与えたりという心の交換や共有感を得たいからだ。要は寂しい人間の寂しさを埋めるためのとりあえずの処方、あるは寂しさをまぎらわす、ごまかす行為といっていかもしれない。

ところが、である。私の場合だが、10月の初めに突然公的機関で働くことが決まって、否応なしに色んな人と会うし、話すし、移動に時間を取られたり、仕事の準備に追われたりすると私の生活の中でTwitterの優先順位が最低になり、どうでもいい存在に感じられるようになったのだ。Twitterにとられる時間を家事や出勤の用意や植木の水やりに必然的に使うようになってしまうし、移動中はスマホをもっていないからTwitterは出来ないし、仕事中は当然出来ないし、帰宅後は疲れてTwitterにどころではない。仕事で人と会って話すし、ましては外国人と英語で話すときはもうその会話に集中する必要があるのでエネルギーを使いまくる。そうやって自分の目や耳や五感をフル働かせて人とかかわっていると、さらにTwitterでまでも繋がるエネルギーは残らないし、繋がりたいとも思わなくなる。どうでもよくなる。結局そいうことなんだなってつくづく思った。

リア充なんて言葉は大嫌いだけど、充実してるかしてないかってより、人と実際に会って、表情やしぐさや動きや醸し出す雰囲気や、声のトーンや大きさ、着ている洋服や靴なんて生身の人間そのものを目の前にして得るものの面白さ深さや親しみは、とうていSNSで補えるものではないということだ。SNSは所詮ツールでしかなく機能としての役割以上のものはもたらさない、それだけで人は十分に満足できないし、幸せにも感じないってことなんじゃないかな。だからもっともっとってSNSに中毒になっていくじゃないかな。悪循環なんだよなあ。

まあ、違う感覚の人も当然いると思うし、かく言う私もTwitterで得たものも沢山あったので、全否定するつもりもないし、自分が必要な時に適当に上手に利用するのはありだと思う。ただいつのまにかSNS(私の場合はTwitter)の奴隷になってしまうのはいかがなものかということだ。で、私はそうなる前に抜け出せた。助かった!

何事もバランスが大切なんだな。