いつまで続くかわからないブログ/実験と挑戦

すぐ飽きる。最後までやりとげられない。物事を先送りする。そういう人のブログ。実験と挑戦。

このブログを読んでの感想「私は20代身体障害者ですが、残り寿命が半分を切りました。 だからどうってことないけど。 - だいちゃん」

ここのところとにかく仕事のことで頭がいっぱいで、体力的にも限界で、ものすごくストレスに悩まされたために、2年ぶりくらいに激しいパニック状態(目まいと過呼吸)になってしまったので、ブログを書くどころではなかった。

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そして今日やっと落ち着いたんでネットを漁っていたところ、タイトルのブログに遭遇。読んだわけね。この人は19歳で人工透析を始めて今29歳、日本における人工透析最長年数が35年だから、自分の寿命はあと6年だと言っている。それを避けるためには腎臓移植しかないのに、それをするには数十年待たなければならない。臓器移植の後進国である日本の政府の方針や国民の意識の低さを批判している。また家族の臓器移植に対する理解の低さも批判している。さらに、東日本大震災で沢山の人が亡くなって臓器移植の機会が多くあったのに政府がそれを制限したことも。そして「遺体」については、「どうせ火葬して無くなってしま臓器なのだから、移植をすれば他人の中で活かされるし、病気を持った人の命もすくわれるのに、なぜしないのか。遺族が亡くなった家族の臓器移植をすることを拒否するのは「気持ち的に何となくいやだ」と言うのもおかしい。たかが「気持ちの問題」だけでね」と大まかにまとめると、こう言っているのだ。

このブログについて、私は一般論とか倫理観とかそんな視点で意見を述べるつもりはない。私が体験したことをもとに、このブログについて意見を述べたい。

まず、人の命は何よりも大切であることは言うまでもないし、命を奪うことも許されない行為だ。寿命はどうだろう。寿命の意味するところは、その人の自然現象(病気も自然現象の一種である)による命の終焉までの長さだ。これは誰のせいでもなく、誰にもわからないもので、そして誰にでも平等に訪れるものだ。平等と言う意味で長い短いが不平等と感じたとしても死は必ず訪れるという意味だ。医療はこの寿命を技術をもちいて伸ばす行為だ。その一つに人工透析がある。そして私は思うのだが、人工的な技術をもちいて寿命を延ばして、それでも死を迎えるのなら、それがその人の寿命なのではないかと。そして寿命は自己完結であるべきだと思う。なぜなら寿命とは誰の物でもなく自分自身のものであるからだ。他人の命をもらうのは自己完結にならない。

次に、人として「死」をどうとらえるかということだけれども、このブログ主は「どうせ火葬して無くなってしまう臓器」と言っている。肉体については事実はそのとおりだ。しかし残された家族にとって「家族の死」はそれだけの意味ではない。家族が亡くなってその臓器を他人に移植するのは気持ちとして受け入れらないことをこのブログ主は「たかが気持ちの問題」をして切り捨てている。自分の命が大事で寿命をのばいしたいと生きることに執着しているのに、その命が失われたことに大きな傷をおうかもしれない家族の気持ちの問題をそんな風にきりすてるなんて、なんて傲慢なんだろうと思う。自分の命が救われれば、家族の気持ちなんでどうでもいいのか?

私は家族を失って、その喪失感、絶望感で3年近くうつ病で苦しんだ。パニック障害にもなった。自殺したくなった。その上もし家族の臓器が抜き取られる処置をされていたら、どうなっていたかわからない。そして火葬(日本では)は確かに内蔵も燃えてしまって骨になってしまう。肉体的な現象としては確かにそうだ。しかし、これは残された家族が亡くなった家族にきちんとお別れをしてまた明日から生きていくための大切な区切りとする行為であって、ただ人間の体を焼くだけの単純作業ではない。死を受け入れるための「気持ち」の行為だ。気持ちは決して軽いものでもなく、どうせと言って割り切ったり無視できるものではない。家族の死によって精神疾患になり苦しむ人間もいるのだ。「死」とはそれだけ重く深刻な問題なのである。

このことに続いて東日本大震災で沢山の方が亡くなったことに関連しての臓器だが、この未曾有の災害に際して、どれだけの苦悩や困難があったかなど今更説明するまでもない。災害で沢山の遺体がでたのだから、臓器移植に回せだと? そりゃ合理的に考えれば、あるいは数だけで考えればそう言えるかもしれない。だけど、あの地震が起きた当初のカオス状態、パニック状態を見てして、よくそんなことを言えるものだ。じゃあ現実、亡くなった人の臓器を移植するとして、24時間以内にどうやって移植が必要な患者のところへ運ぶのか? それだけの医療処置をする医師がどれだけいるのか時間がどれだけあるのか、ちょっと頭を使って想像力をもって考えればわかることではないか。私は現場で医療行為の指揮をとっていた医師と話したことがあるが、現場は騒然、何か月にもわたって混乱状態だったし、医師自身も疲弊していたと言っていた。そういう状況からでも臓器がほしいのか?

ブログで意見を言うのは自由だ。批判も覚悟で臓器移植の推進を訴えているのだろう。だとしたら、その戦略、プロモーションが間違っている。おろかなやり方だ。ブログ主は、肝臓移植は当然の権利で、背政府が制度を整えて移植を承認する人を増やすことで移植による命が救われると言いたのだろう。しかし他人の臓器をもらうことは「当然の権利」でもないし「制度を整える」という枠組みつくりでで済む話ではない。その臓器を提供した人(亡くなった人)の周りには家族がいて、家族の心や人生が存在するのだ。臓器はただのこっちからあっちへ移動させる「もの」ではない。

最後に、私の家族は全員障害者だ。父は小児麻痺による3級の身体障害者。母は軽度の精神発達遅延 そして進行性核上性麻痺という脳に発症した神経難病患者である。私は多動性注意欠陥障害であり、かつ内臓転移症(内臓の位置が普通の人と全部反対にある)だ。何を言いたいかと言うと、障害ある肉体をもってして、そのことを宿命として受け入れて生きているということだ。障害がある部分を誰か他人のものと入れ替えることなんてできないからだ。私と母は脳に障害があるわけだけど、臓器移植が可能なら、遠い将来、脳に障害がある人に希望すれば「脳の移植」も可能になるとういことだ。そしたら私は私でなくなる。脳も臓器だからね。

父は右足を切断していて片足であるうえに、若いころ結核を患っていたので肺が一つしかなかった。そのために肺がんで若くして亡くなった。しかし父は自分の障害と寿命を受け入れていたし、その証拠に死ぬ前日に「俺は精一杯生き切った。悔いはない」と言い残したのである。

寿命が短い。それは不公平と感じるだろうし、悔しいだろうと思う。臓器移植さえすれば長く生きられるのに、国も人々も非協力的だと感じ不条理に腹も立つだろう。

しかしである。他者の行為に期待したり依存する前に、自分の与えられた人生、あるいは日々をどう生きているのかを考えるほうがより大事なのではないか。

人は与えられた肉体、生きていくための能力、すべて違う。あたりまえだ。それを受け入れて生きていくのが人生だ。私の内臓は普通の人と位置が違う(心臓は右にある)ので、臓器移植は難しいと思う。それを差し引いていも、私は自分の臓器を他人に提供はしないし、家族の臓器も同じ。そして自分が臓器移植が必要になったとしても私は受けない。それで死ぬなら寿命を受け入れる。それくらいの覚悟はある。それが私の信条。

この記事が沢山の人の目に触れることはないと思うけど、仮にあったとして、炎上したとしてもかまわない。私の考えを変えるつもりもないし、批判する人がいたとしてもそれはそれで受け止める。