いつまで続くかわからないブログ/実験と挑戦

すぐ飽きる。最後までやりとげられない。物事を先送りする。そういう人のブログ。実験と挑戦。

世の中の進歩と私の遅れ

なんだか最近、私は社会に次々に発生してくるものから10年くらい遅れていると脅迫的に思い知らされる気がする。そして遅れていることで劣等感を無理やり感じさせられているような。だけど世の中と同じスピードで進まなければいけないのか?それが出来ないと負け組なのか?それが出来ないとバカにされるのか?

たとえば、スマホ、持ってなきゃだめなのか? 今ままでの折りたたみ携帯だと「ガラケー」とか言われてバカにされる。でもさ、わたしはほとんど出かけないで家にいるし、1日中PCのモニターを前に仕事してるし、私の生活に必然ではないんだよねスマホ。

それから「風立ちぬ」見なきゃだめなの? 日本で75万人見たからと言って必ず見なきゃだめなの? ジブリのアニメを好きにならなきゃいけいないの? 

映画もさ、最新の映画をみなきゃだめなの? 監督の名前とか作品の傾向とかそういうのしっかり覚えて、映画のタイトルや俳優の名前もすらすら言えなきゃ映画を見たってことにならなわけ?私は人の名前や物の名前を覚えるのが苦手ですぐにわすれてしまうので、見た映画の数は多いんだけど、ひとことも映画談議に加われない。話についていけない。どの映画監督がどんな傾向の作品をつくっていて、今度の新作は今までと違うよねって言われてもピンとこない。だけどツタヤに行くと映画のタイトルをみて、これも見たあれも見たって作品が結構あって、結構映画好きなのに語れないから映画無知だと思われてる。別に語りたいとも思わないからいいけど。どうしてかというと私は映画を見ているとき見た直後に何か言葉にならない感情を大事にしたいのと、映画を見たかことで発見した新しい視点というのが好きなんで、作品について理屈をこねたり、批判したり、カメラアングルがどうとうか、物語のプロットがどうとか、語れば語るほどその作品から離れて行ってしまって、結局見た人の「解釈」だけが残るようで嫌なんだよね。見た直後の言葉にならない映像のままの何となくもわもわとしたあやふやでその映画のいくつかの場面やセリフが思い浮かぶような曖昧模糊とした感覚を楽しみたいのよね。だから映画に関して理屈をこねるのはすきじゃない。だって映画ってあくまで映像(抽象)だから。理屈なんかないのよ。と思ってるわけ。

それは音楽に関してもそう思ってる。いろいろ解釈をつけてみたり、言葉で理屈をつけてみても無駄って思う。だったら音楽である必要がないでしょ。文章でいいわけだから。

って話がずれてきたけど。

あとはなんだろう。紙の本を読んでるようじゃ遅れてるのか?とかかな。ノートパソコンは遅れてて、いまどきはタブレットでしょ!みたいなこととか。

ノートにえんぴつで書く日記はまるで中世の人がやることのようで、ブログとかツイッターとかフェイスブックじゃなきゃいけなわけ? 私は今でもシャーペンで紙のノートブックに日記書いてるよ。ここにかけないようなごく個人的なことをね。

IT周辺のことを知らないと、遅れた人ってレッテルはられちゃうわけ?情報を何でもネットでとる時代だし、ウェブサイトからの情報収集方法を知らなきゃ損することも多いし、不利なこともかなりある。だから最低限ネットを見る方法くらい知ってるけど、世の中にはネットなんかと無縁で生きてる人もいるし、その人たちは必ずしも不利だったり不幸だったりしないよね。だけどITデバイスやらネットに精通した人達から見ると「情報弱者」とか見下されてしまうんだろうなあ。私なんかやっとのことで最低限の部分でしがみついてて、ときどきとんちんかんなことを言ってバカにされてる部類かな。だけど何がいけないの? なんでバカにされなきゃなんないの?わかんあいなあ。

次の時代には、何が先端で、誰が時代の先導者で、何が遅れてて、どんな部類の人間が時代遅れとバカにされるんだろう。見ものだわ。それまで生きてるかわかんないけど。時代の先端なんてそんなもんだよ。いつだってすぐに入れ替わるんだから。

あなたも今日は強者で勝ち組でも、明日は弱者で負け組の可能性大なんだよ。